島津軍しまづぐん

戦歴

天正14年(1586)から天正15年に亘り島津氏が三万七百人の大軍で3回に及んで攻撃しましたがついに落城しませんでした。(難攻不落の城という秀吉の感情が3通あります。)



島津氏誕生

南九州の戦国大名・島津氏の祖を辿ると鎌倉時代初期の守護・惟宗忠久これむねただひさまでさかのぼります。惟宗氏はもともと朝廷や藤原摂関家に仕えていた一族で、薩摩さつま大隈おおすみ日向ひゅうがにまたがる日本最大の荘園しょうえん・島津荘を管理していました。鎌倉時代に入っても、将軍・源頼朝から島津荘の下司げし職(現地管理人)に任じられており、その後当地の守護職に就きました。このとき、名字を荘園名からとって島津と改め、南九州一の名家として島津家の歴史が始まりました。南北朝なんぼくちょう動乱期には、初めは南朝側に付きますが、朝廷の九州支配が強まると一転して朝廷軍を攻略して九州地方における地位をゆるぎないものにしました。しかし、室町期に入ると広大な島津荘を支配するために創出してきた多数の分家が独立を目論もくろみ、惣領本家の権威は失墜しました。家督を巡る争乱もしばしば起こり、島津家の勢力範囲は実質、薩摩一国にまで落ちました。このお家騒動を収め、戦国大名・島津家の基礎を築いたのが伊作城いざくじょうを本拠とする伊作島津家の忠良ただよし貴久たかひさ親子です。忠良にとって最大のライバルは、宗家当主・勝久かつひさでした。勝久に両者を抑える力はすでになく、同族争いは合戦にまで発展しました。忠良はこの戦に勝利し、実久を居城・加世田かせだ城に追い詰めて破ると、息子の貴久に宗家(守護職)の家督を継がせました。もちろん一族同意の上であり、ここに薩摩の島津家は忠良・貴久親子のもと、一つにまとめられました。そして島津家の旧領である大隈・日向の奪還、さらに九州統一を目指し、戦国大名として邁進していきました。



島津4兄弟(義久よしひさ義弘よしひろ歳久としひさ家久いえひさ

島津氏は鎌倉期以来の薩摩国守護として伝統ある一族ですが、戦国時代当初は、本拠地の薩摩・大隈さえ統一しきれていませんでした。本拠地である薩摩中央部の内乱を制し、4兄弟の父・貴久が島津家の威信を回復したのは1550年(天文19年)です。それ以後は4兄弟を中心に大隈・日向を平定し、その後10年を経ずして、大友氏の豊後ぶんご筑前ちくぜんを除いた九州のほぼ8割を支配しました。その強さゆえ、結局は天下人・羽柴秀吉はしばひでよしの九州介入を招き、この間の島津軍の連戦・奮闘ぶりは目を見張るものがあり、九州戦国史の醐醍味ともいうべき名場面が続きます。史上最高の呼び声高い島津4兄弟ですが、彼らを巡る境遇は終始華やかではなく、歴史上、明暗を2分されます。「明」は長男・義久と2男・義弘。「暗」は3男・歳久と4男・家久です。もちろん「暗」といっても義久・義弘の扱いに比べればのことであり、歳久と家久もまた花も実もある名将でした。それでも、あえて「暗」とたとえられるのは、彼らの不遇な最期に由来しています。ともに天下人・秀吉によって消された可能性があります。4男家久は父・貴久をして「軍法戦術に妙を得たり」と言わしめ、司令官としての才を高く評価されていました。1584年(天正12年)の沖田畷おきたなわての合戦では自軍の数倍の龍造寺軍を打ち破り、大将・隆信たかのぶの首級を挙げました。1586年(天正14年)の戸次べっき川の戦いでは、大友氏と秀吉援軍からなる連合軍を撃破し、ここでも敵の司令官2人を討ち取りました。戦場で敵の御大将を討ち取るなど稀有けうですが、彼はそれを3回もやってのけました。その武勇もさることながら、家久が優れているのは、地方大名・島津氏としての限界をわきまえていた点です。大友氏の本拠だった豊後占領の立役者にも関わらず、その結果引き起こされた秀吉の島津征伐に対し、講和を主張しています。家久は1575年(天正3年)に薩摩安泰を祈願する宮参りのために上洛し、明智光秀あけちみつひでら当時の中央政権の要人と交友を交わしており、連歌師・里村紹巴さとむらじょうはや、織田信長おだのぶながとも邂逅かいこうを果たしました。島津の強さを信じている家久は、中央権力の強さもまた理解していました。しかし、秀吉の九州介入に対する家中の意見は主戦論に決しました。1587年(天正15年)5月、家久はかつて大友軍を撃破した栄光の地、日向・高城たかじょうにおいて秀吉の弟・羽柴秀長はしばひでながと対峙しました。しかし多勢に無勢で次第に追い詰められ、死線に飛び出そうとするのを兄にさとされて降伏しました。その翌月、家久は急死しました。折から秀長の陣営に出向いていたこともあり、この突然死は様々な噂を呼びました。もっとも有力な説は、家久を恐れた秀吉軍による毒殺説です。だが、秀吉に恭順の意を表していた家久を殺す理由がないとして、秀吉から個別に所領安堵を言い渡された家久の独立を怖れ、島津側が暗殺したとする説まであります。いずれも憶測の域ですが、名司令官の死があまりにも突然で、しかも謎に満ちています。享年41歳で兄弟中最年少の家久が、最も早く世を去りました。父・貴久に「始終の利害を察するの智計並びなし」と評された3男・歳久も秀吉がらみで不遇の死を遂げました。1592年(文禄元年)、島津家の支配地で、梅北うめきた一揆という土豪による反秀吉一揆が起こりました。この責任を、地域管理を担当していた歳久が負いました。秀吉から直接、歳久の首を差し出すよう義久に命令が下されました。一揆が発生しただけで断首とは、厳しすぎる処置です。しかし、実は秀吉の命の背後には伏線がありました。島津氏の中で、歳久だけがこの天下人に反抗し続けていました。薩摩国内を移動中の秀吉の籠に向けて、歳久配下の武将が矢を射掛けたという事件も起こっていました。天下の大勢を見れば、父から評された智謀の人とは思えない振る舞いでした。結局、一連の態度によって秀吉の怒りを買っていたための厳命と見るのが定説となっています。折から朝鮮出兵で名護屋城なごやじょうにいた義久は、すぐさま鹿児島に戻って重臣たちと協議しました。しかし天下人の命を拒むわけにはいかず、涙を呑んで弟を処刑し、秀吉に歳久の首を差し出しました。この時歳久は56歳で弟・家久の突然死から、5年後の逝去でした。島津4兄弟は、いずれも甲乙つけがたい優秀な人物でした。彼らに一切、後継者争いが起こらなかったことは、お家騒動で存続の危機に陥る戦国大名が多い中で、奇跡的です。しかし、4人がともに栄えられるほど、この時代は甘くありませんでした。秀吉の全国支配に対する反抗は、島津家断絶にはいたらなかったものの、兄弟2人を相次いで失うという苦い結末になりました。歳久・家久なきあと、九州戦国時代は完全に終息し、秀吉による天下統一が完成しました。のちに秀吉から家康へと覇権が移っても、島津家は義久の智と義弘の武を持って巧みに危機をくぐり抜け、家名継承を全うしました。先に逝った弟たちへの鎮魂の気持ちが、兄2人を支える知勇となったのかもしれません。