志賀氏しがし

元弘元年(1331)大友能直おおともよしなおの支族志賀貞朝しがさだともが隣り町(朝地町)の志賀城から入城し後醍醐天皇ごだいごてんのうの命を奉じ建武年間より正平年間まで凡そ二十余年の間南朝に忠勤功あって、以後文禄2年(1593)まで、17代262年間城の拡張及び普請を続けました。


幻の城下町

普光寺磨崖仏ふこうじまがいぶつから、約30分で竹田市狭田(岡城の北にあたり岡城を挟んで現在の竹田の反対側に位置します)  に出ます。右手に、岡城跡の裏山が姿を見せ、集落の真中を通る幅3.5mの道の両側は、苔むした石垣が続いています。竹田を支配した志賀氏時代の町で、いまは人呼んで「幻の城下町」です。市内とも思われない静けさと  ひなびたたたずまいで、栄華は昔の夢です。神角寺山の戦い以後、大友氏が一帯を治め、志賀氏はその一族でした。大分市に居城を構えていた大友一族の総大将・大友宗麟おおともそうりんが病死した後、息子の義統よしむねは秀吉の命で朝鮮に出兵しました。明の大軍に恐れを  なして、小西行長が守る平壌城を助けず逃亡したため、領地を没収されました。秀吉お気に入りの勇将だった17代岡城主・志賀親次しがちかつぐも一族に殉じて城を捨てました。文禄3年(1594)に後を引き継いだ中川氏が、今の市中心部に町を移しました。生い茂る雑草の中にも、屋敷跡の土台石や古井戸、庭園などが残されています。