東京音楽学校とうきょうおんがくがっこうへ進学

滝廉太郎の音楽学校進学に、両親は反対でした。両親としては廉太郎を高等学校、大学とすすめることを考えていたようです。両親を説得し、廉太郎の音楽学校進学を勧めたのは、陸軍省技師だったいとこの滝大吉と伝えられています。日清戦争前の風雲急な中で、日夜多忙な職務に追われる大吉が廉太郎の両親に対して十分な説得が出来たでしょうか。滝大吉のほかに、廉太郎に影響を与えた人物はいなかったのでしょうか。岡城阯にある「滝廉太郎銅像」に刻まれた文章の一説に「学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君…」と記されています。学校のオルガンを弾くことを許したのは誰なのでしょうか。全校生徒を集めて尺八を吹くことを命じたのは誰だったのでしょうか。この人物が廉太郎の進路決定に関係はなかったのでしょうか。廉太郎が音楽学校時代、母にあてた手紙の中に渡辺、島田、相沢の3人の先生の名前が記されています。渡辺先生は明治25年(1892)師範を卒業し向町にあった竹田小学校に奉職しました。この年、同校では風琴(オルガン)が購入され、唱歌課が新設され、渡辺先生が担任となりました。渡辺先生が登下校の際に通る道筋に、当時廉太郎が住んでいた家があり、先生は学校の行き帰り、廉太郎のハーモニカやバイオリンを聞いていたと思われます。明治26年(1893)4月、廉太郎は高等小学校4年生に進級しました。渡辺先生も高等小学校で教鞭をとるようになり、2人の子弟関係が始まりました。渡辺先生との付き合いの中で廉太郎の音楽への気持ちは益々高まり、全校生徒を集め、尺八を吹かせたのも渡辺先生ではないでしょうか。さらには、廉太郎の両親へあてた手紙に何度も渡辺先生の名前が出てくることから、廉太郎の志望を知る先生が、両親説得の労をとったと想像することができないでしょうか。ともあれ、廉太郎は不世出の音楽家として数々の作品を残しました。その作品と岡藩とのからみもまた興味深いものがあります。秀吉を豊太閤に押し上げた天王山の戦いで戦功をあげた藩祖清秀以来、数々のロマンスと栄華を誇った中川家の居城は崩れ、その城跡を歩いた滝廉太郎。廉太郎が作曲した唱歌の中に岡藩への思いが色濃く感じられます。