田能村竹田たのむらちくでん

豊後南画の一人者・田能村竹田は1777年(安永6年)岡藩典医の次男として竹田たけたに生まれました。医業を止め、22歳で藩校由学館ゆうがっかんに出仕して子弟の教育にあたり、唐橋君山からはしくんざん(医師・儒学者・漢学者)・伊藤鏡河いとうきょうがに師事し、豊後国誌ぶんごこくしの編集にあたりました。江戸に出て古屋昔陽ふるやせきように学び、画と詩に優れた才能を示しました。頼山陽らいさんよう(儒者・詩人・歴史家)・篠崎松竹ら文人・墨客ぼっかくとの交際も広く、文芸は茶道・華道にも及び、南画では淵野真斎ふちのしんさい渡辺蓬島わたなべほうとう(岡藩画員)に手ほどきを受け、中国の画法を確立し自己独自の様式と境地を創り上げ、田能村直入・高橋草坪・帆足杏雨ほあしきょうう外多くの俊才を育て、日本南画界の最高峰を極めました。今も竹田市の街並みを見下ろす高台に残る竹田荘ちくでんそうは、1790年(寛政2年)、竹田が画業に専念するために建てた物です。1835年(天保6年)大阪中之島の岡藩蔵屋敷で病気のため「不死吟ふしぎん」を絶筆ぜっぴつとして、59歳で他界しました。